京都御所が室町時代初期に現在の地に移されて以来、「武者小路通」は京都御所警護にあたる侍達が住したことにより、この名で呼ばれてきました。
その昔は古今伝授の大家と仰がれた三条西実隆(さんじょうにしさねたか)の屋敷があったと伝えられています。
武者小路千家は、この同家南側に面する道路、武者小路通の西寄りに通用門があり、東寄りに弘道庵(こうどうあん)前車廻しと表玄関があります。表玄関からは弘道庵寄付(よりつき)にすぐに入ることになり、通用門からの来客は内玄関から寄付をへて、半宝庵(はんぽうあん)、環翠園(かんすいえん)、行舟亭(ぎょうしゅうてい)、祖堂(そどう)、官休庵(かんきゅうあん)など、それぞれの茶室へ通ります。
露地(ろじ)は南面の西から東へ、さらに北へと奥深く細長く続きます。その南北に伸びる露地を挟むような形で、弘道庵が渡り廊下をへて東隣にあり、さらに露地北には二階建ての茶室、起風軒(きふうけん)があります。
露地の南東隅には外腰掛(そとこしかけ)並びに下腹雪隠(したばらせっちん)、北端には南向きに内腰掛(うちこしかけ)が設けられています。
半宝庵外観
半宝庵の原型は直斎(じきさい)好みの茶室、一方庵(いっぽうあん)だと伝えられます。一方庵は庭の井戸を避けるため、一方の壁を斜めに拵(こしら)えた席でしたが、天明八年【1788】に焼失しました。その後一啜斎(いっとつさい)が一方庵に変化を加え半宝庵として建て替えるも、嘉永七年【1854】に再焼失し、一指斎が明治十四年【1881】に再建して現在に至ります。
半宝庵の床と点前座
四畳枡床(ますどこ)、中柱出炉(でろ)の間取りで、枡床の地板には松、床柱に赤松皮付、中柱にコブシ丸太が使われています。躙口(にじりぐち)には二枚の幅広い板戸を立て、板戸を取り外すと眼前に前庭露地が見渡せます。灯籠(とうろう)、蹲踞(つくばい)、植え込みが全体的に低く設計され、室内より眺める露地に奥行きを感じさせる趣向となっています。
環翠園前露地
八畳の空間に幅一間、奥行き半間の床の間を取り込んだ七畳敷の広間で、元・会津藩御用達(ごようたし)の矢倉家にあった直斎好みの茶室を、一指斎が譲り受け現在の場所に移築しました。その際、東側に台目(だいめ)三畳の鞘(さや)の間(ま)を新たに加え、広間としての工夫がなされ、北東の隅には濡縁(ぬれえん)を設け、立ち蹲踞が据えられています。
環翠園の床と茶道口
炉は四畳半切り、下座床(げざどこ)で、床柱は赤松皮付、床框(とこかまち)は縞柿、欄間(らんま)の独楽(こま)透かしは武者小路千家の定紋の独楽を象ったものです。
空堀
屋根の切妻(きりづま)にかかる扁額(へんがく)「環翠園」は一啜斎と親交のあった出雲松江藩主松平不昧(まつだいらふまい)公の筆になります。蹲踞や外腰掛、空堀(からぼり)にかかる御影石(みかげいし)の石橋など、露地の風情ある景色が望めます。
行舟亭内部
三畳台目向切(むこうぎり)、壁床(かべどこ)の小間(こま)で、舟底の化粧屋根裏天井(けしょうやねうらてんじょう)や、両側の明り障子の位置、寸法が屋形舟を思わせるところから、行舟亭と呼ばれています。一指斎の頃までは仏間として使われていたこともあって、躙口、蹲踞はなく、前庭も整っていませんが、それだけに気楽に使用でき、炉の季節には最もよく釜の掛けられる席です。家元における茶事などの際には、環翠園と祖堂、弘道庵などを結ぶ客の通路ともなります。
祖堂外観
明治時代中期に一指斎によって建てられました。四畳半の広さで北側西寄りの壁を斜めの壁床とし、床柱に大徳寺総見院の沙羅椿の古木を用いています。その床柱右側の大きな円窓の奥に上段の間を設け、利休居土を祀る利休堂とし、祖堂と呼ばれています。
祖堂の床と御窓内平常飾り
特色として掛込天井(かけこみてんじょう)に突き上げ窓があり、切妻造り銅板柿葺(こけらぶき)の屋根に深い庇(ひさし)がつき、袖壁(そでかべ)で軽く囲んだ土間庇(どまびさし)の上がり口から席に入るようになっています。切妻にある「涛々(とうとう)」の扁額は、讃岐高松藩主松平頼寿(まつだいらよりひさ)伯の筆です。涛々とは波の音であり、釜の煮える音をも表します。一指斎はこの祖堂号をとり、涛々軒とも号しました。
弘道庵外観
安永三年【1774】に直斎が創建した十二畳の茶室が原型ですが、天明八年【1788】の大火で類焼して一方庵と共に焼失し、一啜斎により再建された時に十五畳となりました。嘉永七年【1854】の御所焼けで再焼したため、現在の弘道庵は昭和十五年【1940】、利休居士三百五十年忌に際し、愈好斎(ゆこうさい)により再建されたものです。十五畳の広間に一間半の大床、一間の書院がつき、六畳半の水屋及び六畳の寄付、玄関土間と連なり、玄関の外は車廻しをへて武者小路通に面しています。沓脱石(くつぬぎいし)の上の扁額「弘道」は、茶の湯では愈好斎の直門であった近衞文麿(ふみまろ)公爵の筆になり、額の薄彫りは公の実弟でやはり直門の水谷川忠麿(みやがわただまろ)男爵によります。
寄付より見た弘道庵内部
弘道庵前玄関
武者小路千家の露地の中門(ちゅうもん)で、その屋根の形状が編笠に類似しているところから、編笠門と呼ばれています。軽快な竹格子の両開き戸に、大きな曲線を描いた桧皮葺(ひわだふき)の屋根の構造が、他に類を見ない珍しい中門として広く知られています。直斎の好みが原型と伝えられ、愈好斎の再建以降は約二十年ごとに屋根の葺き替えが行われており、当流の象徴の一つとなっています。
官休庵外観
利休の曾孫(ひまご)で、武者小路千家の流租一翁の創建になる茶室官休庵は、武者小路千家の代名詞ともなっています。その長い歴史の中で安永、天明、嘉永の火災により幾度も焼失していますが、その都度、歴代当主により復興されました。
官休庵の床、踏込板畳と茶道口
現在の官休庵は大正十五年【1926】、愈好斎の再建によるものです。入母屋(いりもや)造り柿葺きの出庇がある一畳台目の茶室で、道具畳と客畳との間に幅約15cmの半板が敷かれ、主客に余裕を持たせるよう工夫されています。
茶道口から入ると半畳分の板畳が踏み込みとなり、炉は向切り、台目の下座床がつき、杉柾柱(すぎまさばしら)を八角になぐって磨いた床柱に、床框には桧磨丸太(ひのきみがきまるた)が使われています。床の向かい側に下地窓(したじまど)、躙口の上に連子窓(れんじまど)、点前座には風炉先窓(ふろさきまど)が設けられ、高齢に達した者でも使いやすい水屋道庫(どうこ)が備わっています。
道庫には二枚の杉ノネ板の戸をはめ込み、内側に竹簀(す)の子(こ)の流しと棚を拵えています。天井は白竹竿緑(しらたけさおぶち)の蒲天井(がまてんじょう)、踏込板畳の上は掛込天井と変化を持たせています。前庭に置かれた鎌倉時代の四方仏(よほうぶつ)の蹲踞も一翁遺愛のものです。
起風軒一階 広間の床
広間より見た起風軒前露地
平成五年【1993】、不徹斎により創建された二階建ての茶室です。
席名は臨済宗大徳寺派第十四代管長福富雪底(ふくとみせってい)老師の命名になります。一階は下座床、八畳台目の広間で、南側と東側に入側(いりがわ)を配し、廊下まで含めると二十畳に広げて使用できます。二階は立礼席(りゅうれいせき)で、天井には小丸太垂木(たるき)の勾配天井(こうばいてんじょう)を取り入れ、南側全面に雲立涌(くもたちわき)模様の組子(くみこ)の明り障子を用いるなど、明るく華やかな雰囲気の意匠で、高欄越しには露地の全景が見渡せます。音響効果も十分に配慮されており、茶会だけでなく各種コンサートなど、多目的な行事にも使われています。
起風軒二階 立礼席の間
起風軒外観
仰文閣南側
仰文閣の床と違い棚
仰文閣(ぎょうぶんかく)は、平成十七年【2005】に環翠園のほぼ上、二階の旧室を改築して完成しました。東面の窓から、お盆の送り火で有名な如意ヶ岳(にょいがだけ)の「大文字(だいもんじ)」を仰ぎ見ることができ、茶室の名の由来となっています。
不徹斎の好みにより、七畳半の板の間で、床(ゆか)・天井・柱から障子の桟に至るまで総黒漆塗りという造りです。茶室西面北隅に床(とこ)と違い棚が設けられており、床地板の見付(みつけ)には流儀で馴染み深い「名取河(なとりがわ)」の蒔絵が施され、違い棚の材には沈香(じんこう)の原木が用いられています。天井は北側が平天井、南側が舟底天井で、南・北・東面に大きく窓が開けられた、自然光溢れる茶室です。